「野口英世物語」
細菌学者。福島県翁島(おきなじま)村(現猪苗代(いなわしろ)町)の貧農佐代助とシカの長男に生まれ、幼名は清作(せいさく)。尋常小学校のとき、訓導小林栄は野口の英才を認め高等小学校進学の学費を与えた。卒業後、会津若松の渡部鼎(わたなべかなえ)の医院の書生となり、4年間医学と外国語を習得。1896年(明治29)上京、医術開業前期試験に合格、ただちに歯科医血脇守之助(ちわきもりのすけ)の紹介で高山歯科学院の用務員となり、1897年済生学舎に入り、5か月後、医術開業後期試験に合格した。
翌年大日本私立衛生会伝染病研究所(所長は北里柴三郎(きたさとしばさぶろう))助手に採用され、細菌学の道に入った。1899年、アメリカの細菌学者フレクスナーが来日、その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。その後、横浜港検疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。1900年(明治33)12月、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学にフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家ミッチェルを紹介された。野口はヘビ毒の研究をはじめ、1902年フレクスナーと連名で第一号の論文を発表した。
1903年デンマーク、コペンハーゲンの国立血清研究所でアレニウスとマドセンに血清学を学び、翌年アメリカに戻り、フレクスナーが初代所長を務める新設のロックフェラー研究所に入所した。1911年梅毒病原スピロヘータの純培養に成功、世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。
1913年(大正2)梅毒スピロヘータが脳と脊髄(せきずい)の梅毒組織内に存在することを確かめた。
1914年ロックフェラー研究所正所員に昇進、同年東京帝国大学から理学博士を得た。1915年帝国学士院恩賜賞を授与され、15年ぶりに帰国、歓迎を受けた。この際、母親に孝養を尽くした美談は多いが、父とはともに語らなかった。
1918年野口は黄熱病(おうねつびょう)原体解明のためエクアドルに赴き、病原スピロヘータを発見、しかしその後黄熱はワイル病であり、ワイル病スピロヘータと同一と判定された。1923年帝国学士院会員となる。1926年ペルーの悪性風土病オロヤ熱の病原体の純培養に成功、またペルー疣(いぼ)の病原体がオロヤ熱病原体と同一種であることを証明、媒介昆虫も確認した。1927年(昭和2)黄熱研究のためにアフリカに赴き、翌年5月21日ガーナのアクラで黄熱により死去した。